小林虎三郎の生涯

  • 1828年(文政11年) 8月18日、長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれる。
  • 1840年(天保11年) 藩主で若殿・忠恭の御付役として江戸へ赴く。
  • 1844年(弘化元年)  藩校・崇徳館の助教に就任。
  • 1850年(嘉永3年)  藩命で江戸遊学
  • 1851年(嘉永4年)  佐久間象山の塾に入塾。蘭学等を修める。
  • 1864年(安政元年)  下田開港反対、神奈川開港を老中・牧野忠雅に嘆願。聞き入れられずに長岡藩へ帰藩。
  • 1859年(安政6年) 「興学私議」を書き下ろす。
  • 1866年(慶応2年) 「藩兵制改革意見書」が採用される。
  • 1868年(慶応4年) 戊辰戦争で敗れ、藩主に伴って会津藩、仙台に逃れる。
  • 1869年(明治2年) 藩の文武総督・大参事に就任。
  • 1870年(明治3年) 5月、支藩三根山藩の救援米100俵を国漢学校の整備拡充資金に充てる。
  • 1871年(明治4年) 柏崎県庁から病気療養を命じられる。病翁に改名。上京して、弟・雄七郎を訪問。
  • 1873年(明治6年) 『小学国史』を出版。
  • 1874年(明治7年) 『徳国学校論略』を出版。
  • 1877年(明治10年) 8月24日に東京向島の弟宅で死去。

    小林虎三郎は、長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれる。
    生後すぐに疱瘡を患い、左目を失う。
    23歳のとき、藩主から江戸遊学を命じられ、佐久間象山の塾に入塾。
    同胞に勝海舟や坂本竜馬、吉田松蔭らがいた。佐久間象山の塾で小林虎三郎は「兵学」や「蘭学」「砲術」「西洋事情」「象山開国論」を学ぶ。
    塾では、長州藩士の吉田寅次郎(後の吉田松陰)と「象門の二虎」と並び称せられた。
    象山は小林虎三郎のことを「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と公言、小林虎三郎の力量を高く評価していた。
    江戸から長岡藩に帰ってからは、1868年(明治元年)に大参事に抜擢される。
    3年後の1871年(明治4年)、小林虎三郎は自らを「病翁」と改名。当時、リウマチや腎臓病、肝臓病などいろいろな病気に苛まれていたからである。
    明治新政府の方針で、廃藩置県が行われた後も、小林虎三郎は政治改革へ熱心に取り組み、郡の役所に対して、教育行政を中心にいろいろな陳情や嘆願を繰り返したが、郡の役所からは逆に「病弱なのだから静養せよ」と命じられる始末。
    1877年(明治10年)、湯治に出向いた伊香保温泉で熱病にかかり、同年8月24日、東京府東京市内の弟・小林雄七郎の家でこの世を去った。享年50歳。

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