小林虎三郎の業績

小林虎三郎の業績で目を引くのは教育に心血を注いだことである。
新政府軍との戦いであった戊辰戦争に敗北し、壊滅的な打撃を受けた長岡藩の重臣だった小林虎三郎は、1869(明治2)年に、四郎丸(現在の長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて、国漢学校(仮校舎)を開設。
1870(明治3)年、牧野家の分家であった三根山藩(現在の西蒲原郡巻町峰岡)の藩主から長岡藩主へ米百俵が送られた。窮状を察し、戦災の見まいという名目だった。
食うものに困っていた長岡藩の藩士たちは米の分配があると喜んだが、小林虎三郎は米の分配を望む藩士たちを前に、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育が何よりも大切であることを説いて、送られてきた米百俵を売却。
その売却代金を学校の開設費用や書籍、器具の購入に投入した。
これが、後に”米百俵の精神”と言われる出来事である。 そのかいあって、1870年7月13日(明治3年6月15日)、国漢学校の新しい校舎が坂之上町(現在の長岡市大手通2丁目)に開校。
新しい国漢学校では、洋学局や医学局まで設けられ、藩士の子弟だけでなく、農民や町民の子どもたちで入校を望む者はすべて入学を許可された。
国漢学校は、やがて解剖学の権威である小金井良精をはじめ、東京帝大の総長となった小野塚喜平次、太平洋戦争に反対しながらも戦わざるを得なかった連合艦隊司令官・山本五十六など多くの人材を輩出。
洋学局は、現在の長岡市立阪之上小学校と新潟県立長岡高等学校の、医学局は長岡赤十字病院と長岡赤十字病院付属看護学校の前身である。

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